旭川

 父の家は、かつて岡山で造り酒屋を営む家柄であり、すなわち地域のちょっとした顔であったらしい。ご維新からまだ日が浅からぬ時世でもあり、父が生まれる前に生まれた幾人かの兄たちも、ほとんどが7つを迎えられなかったという。姉は父の上に2人、無事に育ってはいたが、それでも父がうまれ、無事に7つを過ぎてしまうと、待望の跡取りができたと祖父母の喜びは相当であったらしい。

 とはいえ、時は明治、なにかと時代が動く中でなかなか家業はうまく行かなかったらしい。いくぶん落ち着いた今とは違い、政府というものが今ひとつ信用されず、物価もころころと変動する時代であった。それゆえ、仕入れにも販売にも苦労し、またかつての贔屓筋であった人々も、職を失い岡山を離れ、かといって販路を拡張するほど祖父の才覚もあったわけではなかった。

 父はそうした微妙な雰囲気の中ではあったけども、惣領息子・末っ子としてわがままな少年期を過ごしたという。岡山の実家は、街の中央を流れる旭川から近く、父はしばしばその川面を眺め、小石を投げ、小鮒を釣った。川の対岸には、黒黒とした烏城と役所があり、北の方には後楽園もあった。この店は街道に面し、かつての交通の要衝にあった。

 幼いころの父は、生家のやや南にある東照宮の近くにある学校へ行ったが、登下校には丁稚といえばよいのか店の子どもが鞄や弁当を持って付いてきた。子供の世界では、こうしたお坊ちゃま育ちは随分とからかわれたようだった。背も低く、青白い顔をした父は「女のようだ」とからかわれたが、言い返すこともできず、代わりにその丁稚が暴れたというから情けない話だった。とはいえ財力は父に学を与え、やがて尋常中学を出て、高等学校へと進むことになった。この高等学校は今で言う朝日高校にあり、やはりここも生家からはあまり遠くない場所にあった。父が高等学校へ入ったのは、清国との戦争が終わってしばらくして、岡山に初めて高等学校ができた次の年のことだった。